牧野富太郎 伝

牧野 富太郎(まきの とみたろう)
1862年~1957年(文久2年~昭和32年)

世界的な植物学者。独学の研究者。命名した植物は2500種、残した標本は数約50万点。日本の植物分類学の父とも言える人物。「牧野日本植物図鑑」は時代を越え、読みつがれている。

富太郎は文久2年(1862年)4月24日、今の高知県高岡郡佐川町に酒造と雑貨を営む裕福な商家の長男として生まれました。幼名を成太郎といいました。父を3歳の時、母は5歳の時に病気で亡くします。そして、6歳の時には祖父も亡くしてしまいました。その頃、成太郎から富太郎と名を改名

小学校に入学しますが2年で中退。しかしながら、寺子屋や塾などに入っていたので高度な教育は受けていたのです。その後は植物の採集などをして過ごし、家の資産を植物研究に全て注ぎました。

1884年、22歳の時の二度目(一度目は19歳)の上京で、東京大学理学部植物学教室へ出入りし、矢田部教授や松村任三教授と知り合います。その後、助手、非常勤講師を歴任。しかし、学歴のないことなどから他の研究員たちからは冷遇されました。

25歳の時、市川延次郎、染谷徳五郎と「植物学雑誌」を創刊。その他、ロシアのマキシモヴィッチに標本を送るなどします。そしてこの年、祖母を亡くしました。

26歳の時、「日本植物志図篇」を刊行開始。自ら作画をし、自費出版。大学からも注目されました。そしてこの年には、小澤壽衛(すえ)と結婚。根岸に新たに所帯を構えもしました

1889(明治22)年27歳の時、日本で初めて新種の植物に”ヤマトグサ”と学名を付けました。その年、横倉山で発見したコオロギランの標本をマキシモヴィッチに送ります。
その翌年5月、東京小岩にてムジナモ発見。富太郎の名を世界に知らしめたとも言えるでしょう。しかし、矢田部教授から植物学教室出入りを禁じられてしまいます。そして、 富太郎は自分に好意を抱いてくれているマキシモヴィッチのもとへ赴こうとします。しかし、マキシモヴィッチが急死したことにより、ロシア行きは断念。

その後、佐川に帰郷。高知県下を採集。広範な趣味を持っていたことで富太郎は有名です。成年時代音楽にも夢中だった富太郎は西洋音楽会を開きました。音楽指導にも当たりました。

1893(明治26)年、31歳の時上京。東京帝国大学理科大学助手となりました。その後、「新撰日本植物図説」の刊行、「大日本植物志」の発行などを次々としていく。苦しいながらも、妻の助けで研究を続けていきました。50歳の時に大学講師となります。採集や雑誌の発刊など成果をあげていきます。経済的に困難になりながらも、支援や援助を受け、研究を続けていくことが出来ました。

1927(昭和2)年、65歳の時理学博士の学位を受けます。同年12月、マキシモヴィッチ生誕百年祭の帰途、仙台にて新種のササを発見。翌年、妻の壽衛(すえ)が死去(54歳)。発見した新種のササに妻の名を入れた”スエコザサ”と命名する。

その後も採集、調査、講師活動、学生指導、図鑑の発行などを行っていく。1937 (昭和12)年には、朝日文化賞受賞。

1939(昭和14)年77歳の時、講師を辞任しました。

講師を辞任後も「牧野日本植物図鑑」、「植物記」、「続植物記」、「牧野植物随筆」など著書を数々残す。中には「牧野植物混混録」、個人誌もあった。1949(昭和24)年、大腸カタルで危篤となるも、奇跡的に回復しました。

1950年日本学士院会員に、1951年には文部省に牧野博士標本保存委員会が設置され、第1回文化功労者に。1958年、91歳の時東京都名誉都民となりました。

1954年12月、風邪をこじらせ肺炎となり床に臥す。翌年も病に臥したままでした。さらにその翌年、1956年富太郎は「植物学九十年」、「牧野富太郎自叙伝」を刊行しました。12月佐川町名誉町民に。その年には、高知県五台山に牧野植物園が設立されることが決定していました。

1957(昭和32)年、1月18日にその生涯を終えました。95歳でした。そして死後に、文化勲章が授与されました。東京都谷中墓地に葬られ、佐川町に分骨されました。

そして、富太郎の亡くなった翌年に高知県立牧野植物園が開園。その他、東京都立大学理学部牧野標本館、練馬区牧野記念庭園が開園しました。

95年という生涯、多くの著書、標本などを残し日本の植物学に多大な業績を残しました。

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