坂本龍馬 伝

2010年の大河ドラマは岩崎弥太郎の視点で龍馬の生涯を描く『龍馬伝』!
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画像:坂本龍馬

坂本 龍馬(さかもと りょうま)
天保六年(1835年11月15日) - 慶応3年(1867年11月15日)

龍馬は通称、諱は直陰(なおかげ)後に直柔(なおなり)、号は自然堂、その他に変名として西郷伊三郎や才谷梅太郎、取巻の抜六、大浜涛次郎高坂龍次郎を使用していた。
※諱(いみな)とは現在の実名にあたり、戸籍上の名前です。武士は元服の際にこの名前をつけますが昔の日本では習慣として普段は実名を避け通称で呼んでいたようです。

天保六年(1835年)、土佐藩士(郷士)坂本八平直足の次男として誕生。 誕生日については、他説もありますが通説は11月15日となっています。またこの日は龍馬が暗殺された日でもあります。 毎年この日には、高知市上町の龍馬の生家前で、全国から集まった龍馬ファンによって「誕生祭」が開かれています。

幼少時は、落ちこぼれなどと言われ、楠山庄助塾もできの悪さですぐに退塾させられたと言われています。 泳ぐこともできず姉の乙女に、腰を縄で結び反対の縄の先を竹竿に結びつけ、家の近くを流れる鏡川に投げ入れられて特訓を受けた(無理やり?!)のは有名な話です。 そんな龍馬も剣術道場に通うようになり、変わります。 通っていたのは日根野道場で、そこで「小栗流和兵法事目録」を伝授されます。

そして、江戸へ剣術修行に出ます。江戸では北辰一刀流千葉定吉(千葉周作の弟)に入門。 そこで龍馬に与えられた「北辰一刀流長刀兵法目録」は剣術の方ではなく、薙刀(ナギナタ)のものだということが、 近年の研究によってわかりました。しかしながら、江戸の三大道場のひとつ桶町の千葉道場の塾頭をしていたのだから、 それなりの腕であったと思われます。

脱藩

文久2年(1862)3月24日、沢村惣之丞と共に坂本龍馬は脱藩します。 土佐→野村→河辺→五十崎→長浜→下関というルートを通って脱藩しました。よく脱藩者が使うルートらしいです。この時、龍馬に刀を渡したのは、姉の乙女だと言われています。

その後各地を転々とし、龍馬は桶町の千葉道場に身を寄せます。そして、文久2年(1862)10月に千葉重太郎と共に、軍艦奉行並勝海舟を暗殺しようと氷川町の屋敷に向かいます。しかし、勝海舟の話を聞いた龍馬は感銘を受け、その場で弟子入りを志願。門下生となりました。その後龍馬は同士を門下生に次々と入れていったのです。勝海舟との出会いは、今後の龍馬にとって重要なものとなりました。

その後、龍馬は西郷吉之助や土方楠右衛門と会談。土方楠右衛門とは、薩長和解の方策について打ち合わせ、続いて桂小五郎と会談を行うなど、薩長両藩の和解に努めます。 そして龍馬は、薩長両藩和解のためには、貿易による実質的な結びつきが必要であると考えました。そして、薩摩藩の援助を受け、 長崎に亀山社中を設立。この亀山社中の活動を通して、 龍馬は幕府の経済封鎖に困窮する長州藩に接触したのでした。第2次長州征伐に関しては、西郷に長州藩のため武器弾薬の購入の名義貸しの了解を得るなどし、その他にミニエー銃4300挺、 ゲベール銃3000挺を買い付け、胡蝶丸で下関に運び込んだり、グラバー商会からユニオン号(桜島丸と命名)を薩摩藩名義で購入するなど、経済的結びつきにより両者の隔たりをなくしていったのです。

薩長同盟

慶応2年(1866)1月10日、薩摩藩城代家老小松帯刀邸で薩摩藩側から西郷吉之助、小松帯刀、吉井幸輔、長州藩側から桂小五郎、 品川弥二郎、三好軍太郎らが出席し、秘密会談が行われました。 しかし、両藩体面にこだわり、具体的な話が出ずに十日余りが過ぎてしまいます。20日、龍馬が桂を訪ね同盟の詳細を聞くと、薩摩藩側から同盟の話は出ず、 もう会談を打ち切って帰国するつもりだと答えました。なぜ長州側から持ちかけないのかと問うと、「長州は今危機に瀕している。長州から同盟を持ちかけては、 まるで援助を請うているようなもの。だから、できない」と答えました。龍馬はもう一度薩摩との会談に応じるよう桂を説得し、西郷のもとへ走り、直談判します。その中で、龍馬は長州の事情を説明し、 同盟の話は薩摩藩側からを切り出すよう要請しました。そして21日、再度の会談で要請を承諾した西郷から同盟の話が切り出され、 薩長同盟が成立したのです。

海援隊の誕生、そして船中八策・大政奉還

慶応3年1月12日、長崎の清風亭で坂本龍馬と土佐藩参政後藤象二郎の会談が行われ、その結果4月に亀山社中は海援隊として生まれ変わりました。海援隊は後藤の管理下に置かれ、龍馬は海援隊隊長に任命されました。 海援隊は土佐藩に属していたものの、その経費は海援隊の海運業で賄うことが原則でした。また、貿易商社の役割だけでなく、政治、経済、語学、航海術などの学問の研究の場としての役割も果たしていました。 同年6月23日には、京都の料亭で薩摩藩側から西郷吉之助、小松帯刀、大久保一蔵、土佐藩側から後藤象二郎、福岡藤次、中岡慎太郎らによる会談が行われ、 大政奉還実現に向け、軍事同盟である薩土盟約が成立しました。

慶応3年(1867)6月9日、龍馬は後藤象二郎に長崎から兵庫へと向かう藩船の中で、薩長に比べ政治的遅れをとる土佐藩へ起死回生の策「船中八策」を提案しました。その案は、将軍家が自ら朝廷に大政(政権)を返上し、議会政治を行うという大政奉還を軸に、人材の登用、国際法の制定、日本国憲法の制定など、「五箇条の御誓文」の草案ともなったと言われるものです。 同年10月3日、後藤は容堂の命を受け、二条城で板倉勝静に建白書を提出、6日安芸藩主浅野茂長も大政奉還建白書を提出しました。 そして、14日慶喜の命を受けた高家の大沢基寿が大政奉還の上表を朝廷に提出し、翌15日に勅許され、大政奉還となったのです。

近江屋事件~龍馬暗殺~

慶応3年(1867)11月15日、中岡慎太郎は先の三条大橋乱闘事件で新選組に捕らえられた元土佐勤王党の宮川助五郎の身柄処置について相談するため、 河原町土佐藩邸に福岡藤次を訪ねますが、福岡は不在でした。中岡は土佐藩邸に近い醤油屋近江屋新助方にいる龍馬に相談しようと思い、 近江屋へと足を運びました。近江屋へ向かう途中、土佐藩御用達の書店菊屋に寄り、 そこの倅の峰吉を薩摩藩邸へ使いに出しました。 龍馬は数日前から風邪をひいていたため、身を隠すため普段使用していた土蔵ではなく、 母屋の二階で中岡と会うことにしました。近江屋の二階は全部で四間あり、 奥の八畳の間で、火鉢を挟んで中岡と対座し、話を聞きました。二つ部屋を隔てた表の間では、龍馬の世話役である藤吉がいました。 やがて夜が更け、藤吉は部屋の行灯に灯を入れました。 そこへ岡本健三郎が龍馬を訪ねて来て、 ほとんど同時刻に中岡の使いで薩摩藩邸へ行っていた菊屋の峰吉が帰って来ました。 しばらくの間、龍馬、中岡、岡本の三人は話し込んでいましたが、 龍馬は腹が減ってきたので峰吉に軍鶏を買いに行くよう頼みました。 龍馬に一緒に食おうと誘わた岡本ですが、これを汐時に帰ろうと思い、 峰吉と連れ立って近江屋を出ました。二人は四条の辻で別れ、 峰吉は四条小路の「鳥新」で軍鶏のを注文し、四半時(30分)程経って近江屋へ戻りました。

峯吉が帰宅すると表戸が少し開いており、不思議に思って中を覗くと、 土佐下横目の島田庄作が抜刀し、立っていました。驚く峰吉に、 島田は「峰吉じゃないか。たった今、坂本と中岡がやられた」と言いましたが、 そんなことあるはずがないと峯吉は思いました。ツカツカと中に入り、台所から裏口に出ると、物置の方から人の気配がしました。 物置の戸を開けると、井口新右衛門夫婦がガタガタ震えながら、 「峯吉さん、悪者が入って、二階は大騒ぎになっている」と言いました。

峯吉は子供心にその有様を見たくなり台所に戻り、二階に上ろうとすると、上 から血がポタポタと垂れているのに気づきました。 二階に上ると上口には背を斬られた藤吉が横倒れに苦しんで、峯吉が大声で島田を呼ぶと、すぐ島田がやって来ました。 落ち着いて辺りを見渡すと脳しょうを噴き出した龍馬が奥間で倒れていましたが、中岡の姿は見えません。 慎重に部屋の中に進むと隣の道具商井筒屋嘉兵衛方の屋根に倒れて、助けを呼んでいる中岡を発見しました。 峯吉が中岡を背負って座敷に連れ帰ると、中岡は息を吹き返し、この始末を堺の陣屋に報告するよう頼みました。 峯吉が白川の陸援隊へ急を告げると、隊に居合わせた田中顕助が薩摩の吉井幸輔と共に到着しました。 その後、遅れて香川敬三、本川安太郎も駆けつけました。 翌々17日、中岡は焼き飯を食べる程まで快復したようにみえましたが、 吐き気を催し、そのまま息を引き取りました。襲撃された日は、龍馬33回目の誕生日でもありました。

龍馬暗殺説には実行犯、黒幕にもいろいろな説があります。

  • 京都見廻組説…最も有力視されている説です。寺田屋事件で幕吏数人をピストルで殺傷したとして龍馬を追っていました。後年、今井信郎や渡辺篤ら元組員が龍馬襲撃を証言していますが、証言の食い違いなどもあり、売名行為との見方も。真実かどうかは定かではありません。
  • 新撰組説…元新撰組の伊東甲子太郎が暗殺現場に残された鞘を見て新撰組の原田左之助のものと証言したことなどから、 原田に疑いが掛かりましたが、その後の調べで近藤勇をはじめとする隊士の誰もが関与を否定。 後には伊東ら高台寺党の仕業との説も出ていて、諸説入り乱れています。
  • 薩摩藩黒幕説…武力による討幕ではなく、平和改革路線を訴える龍馬は革命成就後、目障りだったという推察による説です。黒幕に大久保利通や木戸孝允、西郷隆盛らが挙げられ、伊東甲子太郎ら高台寺党に指示、 あるいは見廻組に龍馬の所在を教えたなど、実行犯についても様々な説があります。
  • 土佐藩・後藤象二郎説…「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた土佐藩の後藤象二郎が、手柄の独り占めを狙って暗殺を企てたとする説。 中岡慎太郎が死ぬ前に残した証言によれば、刺客は「こなくそ!」と斬りつけてきたという。 これは四国の方言で「この野郎」という意味。
  • フリーメイソン・イギリス陰謀説…武力による討幕をおこさせ、武器を薩摩に売るために 、トーマス・グラバーや、アーネスト・サトウらにより、平和路線の龍馬を暗殺したという説。
  • 紀州藩説…紀州藩所有の蒸気船「明光丸」と、海援隊が運航する「いろは丸」が衝突し、いろは丸は宇和島沖に沈んだ。(慶応3年4月23日) 紀州藩と龍馬引き入る海援隊は、賠償をめぐって激しく交渉を続けていた。龍馬は人脈や交渉力、果ては繁華街で「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」と歌を流行らせその包囲を固め、交渉勝利のためにあらゆる智恵をつかって交渉に当たっていた。その分が悪くなった紀州藩が、龍馬を暗殺したという説である。しかし、龍馬暗殺の直後、紀州藩は7万両の賠償に応じたのでした。

主なものはこれらの説ですが、いずれも真実は定かではなく、未だ様々な説が流れています。

坂本龍馬人物伝

龍馬についての出来事
天保6(1835)年 1歳 11月15日、郷土・坂本長兵衛の次男として、高知城下本庁筋一丁目に誕生
嘉永元(1848)年 14歳 剣術の小栗流、日根野道場に入門
嘉永6(1853)年 19歳 剣術修行のため江戸遊学
千葉定吉道場へ入門
ペリー来航で藩の臨時御用に徴用される
安政6(1859)年 25歳 9月20日、砲術家・徳弘幸蔵に入門
文久元(1861)年 27歳 8月、土佐勤王党結成され、翌月、加盟する
文久2(1862)年 28歳 1月15日、長州の久坂玄瑞を訪れる
3月24、沢村惣之丞と共に土佐藩を脱藩する
10月、千葉道場の千葉重太郎と共に軍艦奉行並の勝海舟宅を訪れる
文久3(1863)年 29歳 1月8日、勝海舟の私塾に同志とともに入門
4月24日、神戸海軍操練所の設立が決定、私塾の開設も認められる
元治元(1864)年 30歳 2月9日、勝海舟より外国連合艦の下関砲撃調停の命を受け、翌日、同志らとともに長崎に向かう
5月頃、攘夷派志士らを蝦夷地に移住させ開拓事業を唱える。この頃、医師・楢崎将作の長女・お龍と知り合う
6月5日、池田屋事件で同志の望月亀弥太が自刃する
8月1日、お龍を伏見の船宿寺田屋に預ける。このころ、お龍と内祝言をあげる。
8月14日、勝の使者として京都で西郷隆盛と面会する
慶応元(1865)年 31歳 閏5月6日、木戸孝允と会見し、薩長和解を説く
閏5月10日、薩摩の西郷は木戸との会談予定を破り、そのまま上京する
閏5月29日、西郷説得のため、中岡と上京する。この頃、長崎に亀山社中を創立し商業活動をはじめる
慶応2(1866)年 32歳 1月22日、薩長同盟が成立する
1月24日、午前3時頃、寺田屋で三吉慎蔵と会談中、幕吏に急襲される
お龍が気づき、急を知らせ、虎口を脱す(寺田屋事件)
慶応3(1867)年 33歳 4月上旬、社中を土佐海援隊に改編。隊長となる
4月23日、いろは丸が紀州の明光丸と衝突し、沈没する
6月15日、長岡に「船中八策」を起草させ、土佐藩の後藤象二郎に示す
6月26日、薩土芸・三藩による王政復古について意見が一致、「約定書」成る
10月14日、将軍慶喜、大政奉還
11月1日、越前の松平春獄に謁す。この頃、「新政府網領八策」を著す
11月15日、近江屋で何者かに襲われ、翌日没す

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