岡田以蔵 伝
岡田 以蔵(おかだ いぞう) 1838 - 1865年
幕末四大人斬りの一人で、「人斬り以蔵」として恐れられました。土佐勤王党に加盟。武市瑞山に命ぜられるままに暗殺を行う。しかしながらその名は、後に名簿から削られています。剣の才は非凡ながらも、学がなかったため暗殺の道具のように使われたとも言われています。
岡田以蔵(以下:以蔵)は、1838年土佐郡江ノ口村の足軽の長男として生まれました。そこには以蔵の他、6件の家が並んでいたので、「七軒町」と呼ばれていました。これにちなんで、土佐勤王党の密書や文章の中に「七以」と出てきますが、これは以蔵のことを指す暗号だったようです。
以蔵の父は郷士という身分をお金で買いました。当時の土佐では身分による差別が激しく、多くの志士は郷士を目指すのです。郷士の身分をお金で買うことはそれほど珍しいことではありませんでした。かくいうあの坂本龍馬の家は、郷士の新規募集に応募し、身分を手に入れました。
余談ですが、以蔵の身分は「足軽」とよく言われますが、れっきとした「郷士」です。足軽に応募したとの説も、よく言われていますが、郷士より身分の低い足軽に応募したとは、少々考えづらいので、郷士だったと思われます。(参考>>土佐藩)
以蔵は武市瑞山(半平太)に師事し、剣術を学びます。その後、江戸に出て鏡心明智流の名門である桜井道場に入門。中伝を得る。武市に従い、中国・九州を武術修行した後、土佐に帰国し、土佐勤王党に加盟します。
そして吉田東洋暗殺を取り調べていた土佐藩下目付けの井上佐一郎を暗殺したときから、以蔵の人斬りとしての人生が始まったのです。その後、天誅と称して、暗殺を繰り返していくのです。
一時は坂本龍馬の紹介で、勝海舟の護衛をつとめました。勝海舟が京の夜道で刺客に襲われた時、以蔵がそれを救っています。後に、勝海舟が以蔵に人殺しについて忠告をしますが、以蔵は「あの時私がいなかったら、あなたは死んでいましたよ」というようなことを言ったそうです。勝海舟は武市の以蔵に対する扱い、勤王党の行く末を思い、坂本龍馬のように武市と決別するように促しますが、頑固な以蔵の心を変えることはできなかったようです。
それまでは隆盛を誇っていた土佐勤王党ですが、1863(文久3)年8月18日の政変後、急失速を辿ります。そして、山内容堂を中心とする土佐勤王党弾圧が一気に高まります。武市も捕縛されてしまいます。その後、以蔵は京に潜伏していましたが強盗として捕らえられ、土佐に送られるのです。
そして、以蔵はもちろん土佐勤王党の志士たちは拷問をうけるのです。しかしながら、郷士である武市は拷問をうけてはいません。ここでも身分による扱いの差が見られます。過酷な拷問の中、死んでいく者も出てきました。
武市はこのままでは以蔵が全てを自白してしまうのでは、と疑念を抱きます。そして武市は以蔵の毒殺を図るのす。しかし、それは未遂に終わりました。その武市の裏切りを知った以蔵は、これまで拷問に耐えてきましたがついに全てを自白してしまうのです。それにより武市の罪状が決定されました。
武市のために、命あらばと多くの人を斬ってきた。しかし、その信じていた人に、数少ない心を開いていた人に、裏切られた以蔵でした。頑固で純粋であったともいわれるその性格が災いしたのかもしれません。
そして、1865年(慶応元)年、打ち首、晒し首となりました。また、武市は切腹を命じられました。武市のそれは見事な切腹だったと言われています。
以蔵は時世の句を残しています。以蔵はそのとき何を思っていたのでしょうか・・・
『君が為尽くす心は水の泡消えにし後は澄み渡る空』
“浅学”であったと言われる以蔵ですが、この時世の句からは、むしろ気品さえ感じられます。教養もあったのではと思います。しかし、剣の腕はすさまじく、剣に力をそそぐあまり、心が付いていかなかったのかもしれません。
彼の孤独のイメージが、現代人の心にも共感をよび、以蔵のお墓には献花が絶えません。
岡田以蔵の墓の詳細・アクセス方法はこちらをご覧下さい。
岡田以蔵が投獄され、切腹・斬首された番所と獄舎跡はこちらをご覧下さい。