土佐勤王党
土佐勤王党の結成
一藩勤王を唱え、武市瑞山が文久元年(1861年)8月に結成。
坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。(後に名簿から削除されたメンバーもおり、最終的な名簿には192名でした。)
そのメンバーのほとんどが郷士、足軽、庄屋といった下士層で構成されています。
武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は、土佐勤王党の四天王といわれていました。
吉田東洋・山内容堂との対立
勤王党の掲げる攘夷論は、藩主・山内容堂と吉田東洋の進める開国・公武合体論と対立してしまいます。藩政も公武合体論に従い進められていきます。
坂本龍馬、吉村虎太郎脱藩
文久2(1862)年、坂本龍馬、吉村虎太郎が脱藩。
吉田東洋暗殺
文久2(1862)年、東洋による藩政改革が進む一方、武市瑞山は邪魔者である吉田東洋を暗殺することを決断。勤王党の志士に吉田東洋暗殺を指示。(実行犯は、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助)
4月8日、吉田東洋暗殺に至りました。そして、吉田東洋の死後保守派が藩の実権を握ったのです。
京都へ
その後、京都へ出ます。
他藩との志士との交流する一方、朝廷工作に暗躍。
天誅と称した暗殺を岡田以蔵、田中新兵衛などに指示。
特に岡田以蔵、田中新兵衛は幕末四大人斬りとして恐れられた。
岡田以蔵は別名「人斬り以蔵」と呼ばれた。
政変、勤王党弾圧へ
文久3年8月18日の政変で、長州が失脚すると勤王派は一変して衰退の道を辿ることに。
藩政も公武合体派の改革派に握られます。右腕であった吉田東洋を暗殺された容堂は土佐勤王党を弾圧にかかります。武市瑞山ら勤王党の志士たちは次々と捕縛され入獄されたのです。
拷問、そして岡田以蔵の自白
勤王党の首領である武市瑞山は投獄から1年余りの間、吉田東洋暗殺を否定し続けた。
後に、尊王派から公武合体派に意見を改める後藤象二郎も武市瑞山等の尋問にあたった。
武市瑞山の土佐帰国後、京都に潜伏していた岡田以蔵は捕縛され土佐に送られる。岡田以蔵は1年もの拷問にも耐えるが、少しずつ自白しはじめた岡田以蔵に武市瑞山は自身や仲間の立場が危うくなるのではと考えた。そこで武市瑞山は岡田以蔵を毒殺しようと企むがそれは失敗、未遂に終わり、岡田以蔵はそのことにより自分が武市瑞山に道具のように扱われていたことに気づくのです。そして、過酷な拷問もあり岡田以蔵は次々と自白していきました。
野根山事件
元治元年(1864)、武市瑞山らと尊王攘夷活動を行っていた清岡道之助は、勤王党弾圧や武市瑞山らの投獄という藩の所業に憤慨。安芸郡の同士ら二十三人で野根山にこもり藩に反省を要求する。しかし、藩はこれを反逆とみなし兵を派遣。一時は土佐から逃れた清岡道之助らだったが、土佐に送還され、斬首の刑となったのです。
岡田以蔵の全面自供と武市瑞山の切腹
岡田以蔵は遂に全てを自白。それにより新たに投獄される者もでました。党員への拷問は過酷さを増していき、中には獄死する者もありました。 遂に、武市瑞山の罪状は白日のものとなり、慶応元年(1865年)5月11日、切腹を命じられるのです(享年37歳)。その切腹は見事なものだったといわれています。武市瑞山は最後まで吉田東洋暗殺を否定したそうです。また、武市瑞山家の家禄は召し上げとなりました。 武市瑞山切腹と日を同じくして岡田以蔵は斬首刑、晒し首となりました。そこにも身分の差をありありと感じる歴史です。岡田以蔵の時世の句に「君が為尽くす心は水の泡消えにし後は澄み渡る空」と。
岡田以蔵は浅学ゆえに武市瑞山に利用され、またそこにしか己の生きる道を見出せなかったのかもしれません。坂本竜馬は岡田以蔵の死を嘆き悲しみ、身分のない、皆が平和に暮らせる世の中への改革をさらに決意するのでした。