本山 白雲 伝
本山白雲(もとやま はくうん)
明治4年(1871年)- 昭和27年(1952年)
高知県宿毛の生まれ。本名は辰吉。彫刻家。桂浜の坂本龍馬像や高知城の板垣退助像などをはじめ、多くの銅像を制作しました。その数は40体以上に及びます。
明治4年9月1日に誕生。 かつて、土佐七雄のひとつに数えられた土佐の豪族・本山氏の直系の子孫でもあります。また、銅像を制作した板垣退助とは親族にあたります。
高等学校を卒業後、故郷の小学校の代用教員となるも少年の頃より抱いていた美術への執着は消えることはありませんでした。
その後母からの鼓舞もあり、上京。白雲は高村光雲の弟子となります。また、東京美術学校彫刻本科へも入学します。そこで、彫刻の才を磨きます。後に洋風の彫塑を長沼守敬から学びました。
卒業後は、伊藤博文や板垣退助といった人物をはじめ多くの銅像制作を手がけ、銅像制作の第一人者となりました。
高知県内の銅像では、坂本龍馬像(昭和3年)、中岡慎太郎像(昭和10年)、山内一豊像(大正元年)などがあります。
ですが、その制作した多くの銅像は戦時に供出されてしまい、多くは台座の石だけになってしまいました。板垣退助像などは再建されたものです。坂本龍馬像は「海軍の創始者」ということで、壊されることはなかったようです。
芸術家が、魂を込めて創作した銅像は我子同然。それを、銅塊にされ、戦争に利用されるのはどれほどの痛みだったでしょう。
娘さんの随筆では、昭和19年、空襲が断続的に続く中、「すでにスクラップにされてしまった明治の元勲の原型を1体1体、淡々として素手をもって叩き割っている。そのかたわらで母は、しずかに合掌していた。」と綴られています。なんだか。。。大変な光景ですね。
白雲は、昭和27年2月18日に、82歳の高齢で静かになくなりました。
また高知市出身の漫画家・横山隆一は、本山白雲の弟子として彫刻を学んでいます。後に、白雲のすすめもあって彫刻家ではなく漫画家への道を進みました。