山内容堂 伝
山内 容堂(やまうち ようどう)
文政10年(1827年) - 明治5年(1872年)
10代藩主山内豊策(とよかず)の五男豊著(とよあきら)を父とし、追手邸(お城のすぐ近くの追手筋のあたり)で生まれました。 容堂の生母は、下級武士であった下士平石氏の娘で、豊著の側室でした。
後に四賢侯の一人と称され、明察力に優れた人物として有名な容堂ですが、青年時代はあまり勉学に励まず、お酒ばかり飲んでいたそうです。
しかし、13、14代藩主があいついで急病死したのをうけ、嘉永1年(1848年)に15代藩主となってからは、それまでの自分を悔やみ、読書を好むようになりました。
因みに、容堂という名前は、隠居後の名前で、元服後から隠居までは豊信(とよしげ)と名乗っていました。
尊王意識の伝統がある山内家に生まれながら、徳川家にも強く恩義を感じていた容堂は、朝廷と幕府を一体化させる公武合体を実現する道を模索し続けました。
当時、日本は幕末の混沌とした時代でした。外国から開国するよう圧力を受け、国内で政治不安が起こり、幕府と討幕勢力が互いに権力争いをしていました。 双方が、事態の打開を図りましたが、両者共に決定打が出せず、政治均衡を生み出し、事態は膠着しました。
このような事態にあった1867年、容堂は、坂本龍馬発案「船中八策」を後藤象二郎から進言され、徳川慶喜に大政奉還を建白したと言われています。
その後、東京で余生を送った容堂は、酒と詩文の風雅を楽しみ、明治5年(1872年)、46歳でその生涯を閉じました。