婦人参政権・楠瀬喜多 伝
楠瀬 喜多(くすのせ きた)
天保7年(1836年) - 大正9年(1920年)
喜多は天保7年(1836年)米穀商の娘として生まれました。日本の婦人参政権の草分け的存在で、後に「民権ばあさん」と呼ばれるようになりました。21歳の時、土佐藩剣道師範楠瀬実と結婚しますが、17年後・喜多38歳の時に死別。
明治11年(1878年)、区会議員の選挙で「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい。 本来義務と権利は両立するのがものの道理、選挙権がないなら納税しない。」と県に抗議。しかし県は規則だと要求を受け入れず、喜多は内務省に訴え出たのでした。 これは婦人参政権運動の初めての実力行使となり、全国紙大坂日報、東京日日新聞などでも報道されました。
明治13年(1880年)9月20日、 明治維新からわずか13年後、上町町会の3ヶ月にわたる抗議行動に県令もついに折れ、日本で始めての女性参政権を認める法令が成立しました。 その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現。当時、世界でも女性参政権を認めていたのはアメリカのワイオミング州議会だけで、 高知県の上町・小高坂村の動きは世界で2番目に女性参政権を実現したものでした。 しかし、それから4年後の明治17年、日本政府はそれまで各区町村が独自に規則を設けてよいとする「区町村会法」を改訂し、規則制定権を区町村会から取り上げ、 婦人を町村会議員選挙から排除しました。
喜多はその後、自由民権運動の演説会などで弁士として自分の意見を述べるなど女性民権家として活躍。大正9年(1920年)に天寿をまっとうしました。
上町・小高坂村の女性参政権実現から、60年以上の時を経て、ようやく日本で女性参政権が女性の選挙権・被選挙権を認める規則が制定されました。