ジョン万次郎 伝
ジョン 万次郎(じょん まんじろう)
天保年間(一月一日) -
中浜万次郎ことジョン万次郎である万次郎は、土佐の西端幡多郡中浜の貧しい漁師の二男として天保年間(一月一日)に生まれている。
九才で父を亡くし母親はほんの小さな田を小作し、稲穂がまだ実らず青い頃にしごいてきてホウロク(石うす)で煎り、粉にして子供達に食べさしたほどの貧しい生活であったという。
十歳頃から稼ぎに出ていたと言うが、多分使い走り程度の仕事でその日その日を食うか食わずの生活であった事だろう。
万次郎は14才で宇佐に出稼ぎに来て遭難する。その出漁日が一月六日と言う事は正月も中浜の家には帰らず仕事をしていたことになる。その当時西の幡多から高知まで大人の足で一週間の距離だったというその近くの宇佐である。こんな日々の中母親に甘える事もできず遭難する。今なら中二の少年だ。
故郷を離れて十年。脱藩でも死罪の時代にあえて鎖国の日本に帰ろうとしたのは、やはり母親への想いだと想像される。沖縄に上陸した万次郎の荷物の中に木綿袷半てんがあるが、彼は十年間これを大事に保管していた事でもわかる。初めて乗る鰹船での遭難は万次郎にとって想像を絶する思いだと考える。
万次郎が漂着したのは活火山の鳥島であることは、ホイットフィールド船長の航海日誌からも分かる。
「日曜日(1841年)六月二十七日。南東の微風、島影あり。午後一時、ボート艘、亀(スープ用)が居るか見るためにおろす。五人のみすぼらしき疲れた人間を発見。連れ来るが彼らが空腹であるという以外何も理解する事かなわず」
「島の緯度、三十度三十一分北」経度は二日前の日誌に「東経140度31分」とあるから鳥島には間違いない。鳥島で約5ヶ月生活したことになるが、藤九朗と言う大鳥を捕まえて命をつなぐ。少しも人を恐れずという大鳥は産卵のアホウドリであろう。渡り鳥であるから春の巣立ちと共に万次郎達も生活の糧を失うことになる。
しかし一番の困難は飲料水の確保であった。60~70日雨がふらず自らの小便を手に受け飲んで生きながらえた。 ある時崖を登ると二つの古墓らしきものを見つける。石積みをのけると雨水が貯まった井戸になっていた。そのそばには鳥も12羽おり打ち殺した。こうして最大の危機を乗り越えた万次郎達は、その墓に「念仏一辺を唱え、覚えず袂を」ぬらしたとある。
鳥島から万次郎を含む5人はハワイのオワフ島に連れられて来ますが、最年少の彼だけが捕鯨船員として自分の意志で乗ることになります。ジョン=ハウランド号は南米を回り米国東海岸に行く。その船上早速アルファベットを習う。日本では寺子屋にも行っていないのだから、当然読み書きはできません。マストに登り鯨の見張りをし発見すると「シーブローズ」 と英語で大声で知らす。そんな少年に船員達は積極的英語を教えた。ある時船長は万次郎に質問します。
"There has to be iron in a man before there is iron in a whale"
少し考えた万次郎は「自分の中の鉄を大切にします」と答えたといいます。(鯨に鉄のもりを打ちこむ前に、鉄の筋金入りの男であるべきだ)とでも訳そうか。捕鯨船に乗り込んで数ヶ月でこれほどの内容を理解したそうです。
後にマサチューセッツ州フェアへブンの学校に入学するが、ヤコブ・トリップという学友の記録には「万次郎はクラスでいつも首席であり、学習に完全にぼっとうしていた。恥ずかしがりやで態度はいつも静かで、謹み深く丁寧であった」とある。少しよいしょのきらいはあるが、異国の生活に必死になれようとする万次郎の姿がうかがわれます。
人の運命とは実に不思議なものです。日本にいれば読み書きもできない漁師で終わったであろうに、遭難という人生最大のトラブルにあいながら開成学校(東京大学)の教授にまでになる。この数奇な運命を乗り越えていくには、当然尋常な努力ではここまで登りつめる事はできなかったでしょうが万次郎にとっていくつかのラッキーな事があります。まず助けられた相手がホイットフィールド船長であった事が最大の幸運であったといえます。
フェアへブンに帰ってまず船長は万次郎を所属するオーソドックス教会の日曜学校に入れようとしますが、 「わが教会では黒人まがいの者を同席させるわけにはゆかない」と断られてしまいます。次の日曜日も別の教会へ連れて行くがそこでも断られてしまいます。結局万次郎を受け入れてくれた教会は、当時邪道と言われていたユニタリアン教会でありました。船長は後妻としてもらったばかりのアルバチイーナ夫人と共にこの教会に宗旨変えをするのですが、仏教を信仰し、クリスマスを祝い、初詣に行き神に願う日本人。とうてい事の重大性は理解できないでしょう。
しかし、アメリカのフェアへブンと言う小さな町で起こったこの事件は船長が万次郎に示した最大級の敬意であります。万次郎も手紙の中でThe great Godを除けばこの世で最良の人であると船長の事を書いています。彼もアメリカでの生活の中でその意味を良く理解していました。
十年の間何度か帰国を試みようとする万次郎でありますが、脱藩でも死罪の時代。国抜けなど、どんな罪になるか想像もできません。帰国のチャンスを何度かうかがい日本に接近している時に、日本の漁船と仙台沖で遭遇します。万次郎は半てんを着てねじりハチマキをして日本人である事を示し、「ここから土佐へいねるかや」(かえれるか)と大声で聞きましたが返事がありませんでした。
九年後に咸臨丸でサンフランシスコに渡った帰路、ハワイから船長あての手紙にも琉球諸島に上陸したが人々の言葉が全く理解できなかったとあります。今でこそテレビの普及で方言は少なくなり、話を理解できないと言うことは無くなりましたが、その当時多分土佐から出た事がなかった万次郎にとって、琉球や仙台の人と話をするということは、同じ顔をした外人と話をするような感じだったのでしょうか。
その万次郎も日本を離れて十年。帰国を決意し琉球に上陸しますが、百年の鎖国から目覚めようとしていた日本であり、ペリーが浦賀に来て開国を迫った。まさに万次郎にとって最高の舞台での登場であります。アメリカからの土産も二百三十六種類。鎖国日本への土産らしく書籍類(航海書 辞書など)が多い。 ただ当時の日本人には、どうしても理解できないことをどのように説明したか苦労がしのばれます。
まず言葉では参考にさしてもらったジョン万エンケレセ。エンケレセとはイングリッシュが日本人にはそう聞こえたのです。サンデーはしんれい、夏はしゃま、牛はホロコウ、猫はキャア。筆記者の間違いもあります。天をヘブンと正しいのですが、空をあっぷと訳しています。多分空を指さして何と言うと聞いたので、上はアップと答えたのでしょう。お茶はティーだが、リに”つまり、リ"ィ-。歯はディッスだが、リに゜つまり、リ゜ィッス。そんな発音が無いから仕方ありません。昔高倉健のやくざ映画をアメリカで観た人が、「おひかえなすって、おひかえなすって」と言うと字幕の訳が、「プリーズ、プリーズ」と出て笑ってしまったといってたけど(ホントかウソかはわかりません)訳の無い言葉もたくさんあります 。
万次郎が日本に上陸して中浜の母親に会うまで一年九ヶ月もかかっています。これは取調べが厳しかったのではなく、万次郎達三人は日本語を忘れていたようです。 土佐藩の絵師、河田小龍が万次郎と寝起きを共にして、万次郎は日本語を小龍は英語をお互いに教えあっています。 その中で少しずつ西洋事情を聞き書いたものが「漂巽紀略」であります。
そして、この話は小龍から龍馬に語られ、 商人の血をひく龍馬にはこの合理的なアメリカの考え方に感動し、かぶれるというか、はまってしまうのです。 だから、龍馬が靴をはいたりピストルを持ったり、後に万国公報を読んだりしたのは、勝海舟だけでなく、その前に小龍の影響を大きく受けていたのです。よくテレビでは勝海舟によって龍馬は異国のことを知ることになっていますが、 実はその前から小龍によって多くの異国事情を聞いて知っていたのです。アメリカの株式会社のことも聞いたと考えると、 亀山社中(商社)を長崎に作った意図も理解できます。後藤象二郎と手を組んでから土佐商会。それを運営するのが三菱の創始者、岩崎弥太郎です。 龍馬の船中八策の一文にも「上・下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」 勝海舟か小龍によってアメリカ事情を学んでなかったら、とてもこの当時の日本人には考えられない文章です。
そして板垣退助、福沢諭吉らとサンフランシスコに咸臨丸で渡りますが、その時万次郎が薦めた本がウェブスター辞典です。これが「学問のススメ」の基礎になったと言われていますが、実におもしろいと思いませんか。歴史上の彼らには当然分からないでしょうが今一人一人の繋がりを見てみると、運命というか、神様の意思のようなものさえ感じます。ジョン万次郎が遭難しなかったら、龍馬の船中八策、福沢諭吉の学問のススメも、三菱の存在もなかったかもしれません。現在の日本もどうなっていたか想像する事すらできないくらい違っていたのではないでしょうか。万次郎を取り巻く人達によって日本は覚醒し、歴史は人間の思考とは全く別の生き物のように大きく動き、近代日本の夜明けを迎える事になります。