吉村虎太郎 伝
吉村 虎太郎(よしむら とらたろう)
天保8年(1837年) - 文久3年9月27日(1863年11月8日)
幕末の土佐藩士。尊皇攘夷派。天誅組の一人。諱は重郷。出身地は高知県高岡郡津野町。
土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれる。
12歳で父の職を継いで高岡郡北川村庄屋となり、安政元年須崎浦下分庄屋。6年檮原村番人庄屋に転じ、それぞれの任地で冶績を挙げた。
その間高知城下に出て、楠山庄助の塾で学び、また間崎哲馬に師事して修学に努め、武市半平太(瑞山)の門に出入りした。
文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、翌年武市半平太の命で萩に赴き久坂玄瑞と会見する。
文久2年(1862年)2月、武市の密旨を含んで長州藩の久坂玄瑞を訪ね、伏見挙兵計画の情報を得て土佐に帰郷するのだが、情勢の切迫に激して、3月6日同志宮地宜蔵と約して脱藩、長州を経て大阪に留まる。土佐藩脱藩第一号。
この時期、逃亡中だった清河八郎と出会い、薩摩島津公を擁しての挙兵を画策していた清河八郎と意気投合する。
4月23日同志と伏見に集結した。しかし、同日伏見寺田屋の変のため計画が破れて藩に拘束されるがすぐに放免される。
文久3年(1863)明治天皇の叔父にあたる中山忠光を連れて京を抜け大和に入り天誅組を結成する。五条代官所を襲撃し桜井寺に本陣を置いた。
同年8月、前侍従中山忠光を擁して、藤本鉄石、松本謙三郎らと大和に挙兵、「天誅組」と称して五条代官所を襲撃した。「天誅組の変」である。
しかし、8月18日の政変により尊攘派が中央政界から追い出され、後ろ盾を無くし十津川に逃げてそこを根拠地とし、高取城を攻めるが大敗。この戦闘で重傷を負って逃亡し、吉野郡高見村鷲家口に隠れるが、そこも襲撃され逃げ場を無くしその場で自刃する。
享年27歳。