野中兼山 伝
野中 兼山(のなか けんざん) 1615~1663年
江戸時代の政治家。南学者としても知られている。 本名は良継、兼山は号である。
野中兼山は姫路に生まれました。 父は初代土佐藩主山内一豊に家老として仕えていましたが、兼山が生まれた時には浪人となっていました。そして、1615年兼山が4歳の時、父と死別。その後、土佐に帰国。父の従兄弟である野中直継の養子となり、直継の娘を妻としました。
1631年(寛永8年)、18歳の時養父と同じ奉行職となります。 南学を身につけ土佐藩政に取り入れました。1636年(寛永13)年養父の直継が亡くなり、その後を継いで奉行となります。当時の藩主は二代藩主山内忠義で、兼山は忠義に藩政改革を命じられます。その業績はめざましく、今も残っているものもあります。
新田開発、港湾設備等の土木工事
八田堰、山田堰などの堰及び用水路の建設による新田開発や日本最初の掘り込み港湾「手結内港」をはじめとする、津呂港、室津港など多くの業績を残す。 防波堤や波止場を作り、漁港の機能を回復。多くの新田開発や港湾設備建設を行い、「土木神の化身」と呼ばれるほどの土木工事を行いました。
四ヶ村を灌漑
四万十川の支流後川の麻生に分水目的の井堰(長さ160m、幅11m)を設け、秋田・安並・佐岡・古津賀の四ヶ村を灌漑するために水車を設置し水田に水を汲み上げる工事を行いました。
現在では、安並水車の里公園で水車を見学することができます。
産業の振興、専売制による財政強化
ミツバチの導入、捕鯨、アサリの繁殖、林業においては山林経営の基となったサイクル方式の「輪伐制」を導入、紙・茶などの専売制など財政強化にあたった。
その行政手腕によってめまぐるしい業績をあげていた兼山ですが、反面、厳直峻烈な性分もあって兼山の行政に不満を持つ政敵は少なくありませんでした。 二代藩主忠義が隠居し、その後藩主となった三代藩主忠豊により弾劾を受け失脚、宿毛に幽閉。 その3ヶ月後、兼山は亡くなりました。49歳でした。
しかし、兼山没後ながらも一族の幽閉は続き、男系が絶えるまで幽閉は続いたのです。 幽閉が解かれるまで兼山の死後40年という年月がかかりました。