中岡慎太郎 伝
日本の志士(活動家)である。陸援隊隊長。
土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋 中岡小傳次、はつの長男として生まれる。武市瑞山(半平太)の道場に入門し、文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。
文久2年(1862年)、長州の俊英久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。
文久3年(1863年)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに藩を脱藩し、同年9月、長州藩三田尻(現防府市)に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(「衛士」)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となる。
慶応三年(1867)十一月十五日、五ッ時(午後九時)過ぎの頃。
京都四条河原町通り土佐藩出入りの醤油商近江屋、二階奥の八畳間で二人は火鉢をはさんで向かい合っていた。龍馬は少し風邪ぎみでどてらを羽織って、時々鼻水が出るが手のひらや指で拭いては袴へなすくりつける。
見かねた慎太郎が、 「龍、おんしゃあ むさいぞ(きたないぞ)」
慎太郎は龍馬とは全く対称的で、背筋はぴんと伸び正座でたしなめた性格は違っても二人は薩長同盟の立役者である。
「まあ、そういうな。今日はわしの誕生日や。腹も減ったし、一杯やろうぜ慎太」
石川清之助――慎太郎の変名であり龍馬の手紙にも よく出てくる石川であるが、二人の時は龍、慎太である。
「峯吉、峯吉。軍鶏(しゃも)を ちくと行って買うて来とうせ」
龍馬が階下の峯吉に大声で いうと、峯吉は勢いよく表に飛び出していった。
坂本は床を背に中岡は屏風を後にして話こんでいる処に、来客である坂本の身辺の世話役をしていた相撲取り上がりの藤吉が名詞を持って上がって来た。坂本と中岡が燈前で見るが思いあたる人物が浮かんでこない。二人が顔を見合わすと同時だった。階段を転げ落ちるような大きな音がした。
すかさず坂本が、 「ほたえな!」(ふざけるな静かにしろ)
その声を目指して二人の刺客が飛び込んできた。
一瞬なにが起こったのかわからなかった。
屏風が倒れ「こなくそ!」の言葉と同時に中岡の後頭部が切られた。もう一人の刺客は坂本の真正面から前頭部をしたたかに横になぎ払った。二の太刀、三の太刀が矢継ぎ早に二人を襲った。この時初めて二人は現状を知ったといえる。それほど刺客の動きは素早く無駄がなかった。中岡の刀は屏風の後に置いてあり、それを取る間もなく帯びた短刀の「信国」で鞘のまま打ち込んでくる刀を受けてしのいだ。立ち上がったところを左右の足と両腕もなぎ払われ、うつむせになったところを臀部へ骨に達するまで切りつけられた。右手は僅かに皮を止めてほとんど切断の状態である。薄れてゆく意識の中で油断を後悔した坂本も床の間に置いてあった刀「吉行」を取ろうと後ろ向きのところを、二の太刀が右の肩から左下に袈裟がけに切られた。三の太刀を鞘のまま受けたが太刀折のところから六寸(約20センチ)ほど鞘とともに切られ、刀身を三寸ほど削りながら再び額を横に斬られた。部屋は一面血の海だが坂本の意識は妙に澄んでいた。刺客の足の動きをぼんやり見ていた。もう感覚が無いのだ。「もうよい、もうよい」その言葉に安心したのか慎太郎は意識がなくなった。
どれくらいたっただろう。「石川!石川!慎太!慎太!」龍馬の呼び声にハッと気がついた。うめくように「おう!」といって龍馬の方を見ると、吉行の刀を抜いて額の傷を見て言った。(慎太。俺は脳をやられたき、もういかん。無念だ)龍馬の前額部の傷は深く、脳漿は白く噴出していた。自分の死は覚悟したが、慎太はまだ助かるかもしれない。そう思ったのか龍馬は、階段の手すりまで這っていった。 「新助! 新助!医者を呼べ」声にならないが必死である。何度か言った後前のめりでつっぷしてしまった。龍馬の最後である。慎太郎は裏の物干しから隣の道具商井筒屋の屋根に移り助けを求めていたが、 動けなくなっているところを新助達に見つけられ八畳座敷にかつぎいれられた。
近江屋主人の井口新助が凶変を知って、裏手から河原町の土佐藩邸に走った。
急を聞いて集まって来た人びともその修羅場に絶句したが、重傷ながらも意識の確かな慎太郎の言葉に聞きいった。刺客の言った言葉は「こなくそ!」と聞こえた。こなくそは四国者の言葉である。
新撰組の松山藩出身の原田佐之助が始めからうたがわれたが、慎太郎にしても不意をつかれ最初の太刀が後ろからであったことや、ほんの十分ぐらいの出来事である薄暗い中で相手の様子など見る余裕などあろうはずも無い。
十六日夕方には藤吉も息をひきとった。喉の渇きと空腹に水と焼き飯を食べ少し元気づいた慎太郎は 、気丈にも刺客について多くの言葉を残している。
現在は明治三十三年、近畿評論に掲載された今井談で見廻組佐々木唯三郎・今井信朗ほか五名という説が有力だ。
が、どうしても慎太郎の聞いた「こなくそ!」の気合は伊予訛りである。京都と長州を行き来した慎太郎が聞き違えるはずがないと思うし、 見廻組はその前に寺田屋で大捕り物の末龍馬を逃がすという大失態を犯している。実戦では数段上である新撰組の原田が入っても全くおかしくない話である。ただ当時はほとんどの人が新撰組犯だと思っているふしがある。捜査した谷守部などは近藤勇捕縛に狂喜し、斬首された首は三條大橋にさらされたが池田屋・三條大橋・近江屋と多くの同士を新撰組に殺されていた土佐藩関係者は涙を流して喜んだという。
龍馬は亀山社中に見るように商売人的発想であり平和論者である。
慎太郎は農民達を治める庄屋的発想からスタートしている武闘派である。
しかし二人に共通する所がある。それは心の大きさとでも言うものなのか。龍馬は盟友武市を殺した後藤象二郎と、慎太郎も殺そうとしていた板垣退助と手を組む事になる。日本の将来の為の苦肉の選択なのか、土佐人的大らかさなのか解らないが、王政復古が発せられ維新の夜明けを迎えたのは二人の死からわずか二十数日後である…。
中岡慎太郎の生家
中岡慎太郎館
住所:安芸郡北川村柏木140
TEL:0887-38-8600 / FAX:0887-38-8601
開館時間:9:00~16:30(入館は16:00まで)
休館日:毎週火曜日(祝日の場合はその翌日)
年末年始(12月28日~1月2日)